恋する技術とは結局その時々の陶酔の程度に応じて、自分の気持ちを正確に言うことに尽きる
スタンダールの恋愛論については、一つの記事でしっかり掘り下げて書きたい欲求があるのだが、大分面倒なので、ちょこまかと触れた記事何本か書いて終わろうかと思っている。
これはその中の一つ。
恋する技術とは結局その時々の陶酔の程度に応じて、自分の気持ちを正確に言うことに尽きる
この章では、いかに気取らず自然であるべきかを丁寧に書いてある。第一章の心髄はここにあると思う。
この本は恋愛についての話なので、“恋する技術”とあるが、これはコミュニケーション全てにおいて言える。通常の人間関係においても、自らが自らの陶酔を自然に表現することが最も大切である。
これは自衛でもある。というのも、自らがその場で取り繕ったり、打算的な態度でその場をしのいでも、その関係が続けば続くほど負担に思うのは自分自身であるからだ。
それと同時に、相手のためでもあると思っている。無論、関係性は相手あってのことなので、自分がいかにその時々の陶酔を自然に表現できていたとしても、相手が気取っていては話にならない。冷たく言ってしまえば、それまでが“無駄”だったとさえ言えてしまうかもしれない。
だから、俺は自己の陶酔を自然に表現することに努めるし、それを評価し、自らもそのように努める人と関係性を深くしたいと思っている。
だが、それは無論、理想論的な話であり、この章では残酷な事実もしっかりと記載されている。
身持ちの正しい女は、激しさやとっぴさを好まない。これこそ情熱の特徴なのに。激しさは女の羞恥心に警告を与えるだけでなく、防御させる。
つまり、自らの陶酔に身を任せて、それを自然に表現し、相手にぶつけても、その想いが強ければ強いほど相手のことを考えていない暴力的な激しさをまとってしまう。
スーパーでどれだけリンゴが食べたくなってもレジまで持って行く理性は残しておかなければならない。
非合理な儀礼と帰属意識とコミュニティにおいて
先に言おう。これは俺の非合理に関する思考過程だとかを“俺の思考順序”でまとめているので、論理的とは言えない。なので、各々で並び替えて読むことを進める。こういうときに編集者が欲しいと思う。いらんけど。
ここ1~2年ぐらいで、非合理な部分について考えることが多かった。
というのも、前職で会社の会議の議事録を作る仕事があったりして、その会議の録音音声を聞いたりしていた。
その会議は旧世代の縦社会会議のオーソドックスな例という感じで、ガチガチに緊張した部下が発表するのを見て、上司が満足するというのがメインコンテンツで、テンポも悪いし、別に会議でやる必然性も特にないことだったりで、非合理の塊だった。
この議事録を作ることになったときの感想は、そもそも仕事が暇だったから、“退屈な暇潰し”というどんぐりの背比べだなと思った 笑。
だが、実際やり始めたら、これが意外に面白い。プチ旅行気分。
「うわあ、こんな世界が実在すんのかよ!」「タイムスリップしてるみたいやわ。ラノベのオーディオブックみたい 笑」
まあ、こう書くと酷い会議だったように感じるかもしれないが、議題や問題、取り組んでいること自体は非常に中身のあることだった(会議自体は非効率だったが)。
具体的には、(書けないこともあるが、)それぞれの課の休暇取得に関してとか、労働時間に関してとか、現場作業(工事)でのモバイル端末についての経費及びそれに付随したモバイル端末やシステムの検討とか、まあ、議題自体は中身のあることだった。
で、当時の俺はこう考えた。「上司や会社に対しての権威付けとして働くこの会議。部下がこの会議に思うプレッシャーだとかは、この場自体は非合理的で無駄な時間だとしても、この会議が定期的に設定されていることが、部下の日々の業務の緊張感に寄与しているのではないだろうか。」と。
そして、最近。ふと思い出したのは、中高時代の朝礼だとかの儀礼について。学生だったときは、本当にその全てに意味を感じられず、退屈で、無駄な時間だと心の底から思っていたし、参加するのが無茶苦茶嫌だった。多分、同級生にも「マジでこの時間無駄よな」と言っていたし、その同級生も「本当そう。意味分からんな。」と返していたように思う。不確定に書いているのは、何回も言ってるし、何回も言われてると思うので、どれがどの記憶か分からないから笑。
カトリックの学校で、朝にはお祈りの時間が毎日あり(これは仕方ないけど笑)、定期的に講堂に集まってスピーチ聞かされるし、定期的にグラウンドに集められて校長の話聞かされるし、なんやねんこの時間…という。
これについて、最近思ったのは、おそらく、人が集合としてコミュニティを形成するとき、そこに非合理がなければならないのではないかということ。というか、もっというと、コミュニティの根源は非合理であるということ。
setoshunnosuke07.hatenablog.com
・コミュニケーションは基本的に脳死。例えば、挨拶は脳死で、挨拶をすることが目的になっており、挨拶をして、相手が挨拶を返してこなかったら「やばい」とか判断したりするわけだ。コミュニケーションは基本的にその延長の作業が多く、大体が脳死で、他者を理解したり、自分を理解してもらったりするのは、ある種カウンセリングに近い。それは場や関係が整ってないと成立しないわけで、コミュ障と呼ばれる人は、そういう部分において、場違いで関係違いであることが多い。つまり脳死な場や関係で脳死でないコミュニケーションを取ろうとする。なお、脳死コミュニケーションの代表は美容師。
根源の非合理の代表例として挨拶が上げられる。挨拶は“すること”に目的(意味)があり、それ自体に何の意味もない。儀礼的である。コミュニケーションは割と中盤までは非合理の塊であって、
コミュニティはその大きさによって、儀礼の内容自体に変化はあるが、
儀礼はそのコミュニティに対する帰属意識を高める。言ってしまえば、共有できる仮想敵を作る感覚に近い。だから、敵が実在するコミュニティに儀礼はいらない。(そのようなコミュニティは単純な命の危機自体がコミュニティ形成理由で活動理由になるからだ。)
学校での帰属意識は、思い返せば、今俺が「あの中高に通った」という感覚でもあるし、その当時で言えば、他クラスの女の子に話しかけ、その女の子が俺に返答したということの担保は、その帰属意識。だから俺が17歳で覚醒するきっかけになったあの子との恋愛自体は実は数々の儀礼に互いに参加しているということが
そういう意味で、飲み会の乾杯だとかも意味がある。飲み会に参加しているという帰属意識を高める。ただそれだけだが、それは遠く離れた人と話したいがためにわざわざ移動するとか、時間で席替えをするとか、そういうことを場に納得させる効果がある。
他にも円陣、
20191024
(書きかけ。なんか、寝る前は頭の中で綺麗な形でまとまってたんだけど、起きたらぐちゃぐちゃになってたので、とりあえず並べておく。またまとまったら綺麗に書く。)
欲しい本
あるのかもしれないが、どこにあるのか分からない本のリスト
項目別で憲法をまとめている本
項目別(例えば表現の自由についてとか)にまとめていて、そこに国ごとの憲法にどんな記載があって、それぞれ比較検討されているような本。
本当は真正面から色んな国の憲法について学べば良いんだけど、手抜きしたいという不純な動機
二枚貝写真集
これは俺に財力があれば自分で作ろうと思っているのだが、アサリなどの二枚貝の貝類のビジュアルが大好きすぎるので、写真集欲しい。というのも、二枚貝は飼育が難しく、アクアリウムとかで愛でたりできないので、写真で愛でようという話。コミケとかにあんのかな。まあ、でも多分10年以内にはなんとかして自分で作ってると思う。その写真にコピーを自分でつけるかどうかは考え中。
明治維新、明治時代に作られた文化まとめ
現代の日本で「古来から続く日本の文化」と思われているもので、実は明治からですよっていうのは多い。そういうのがまとまっている本。
ラテン語の接頭辞、接尾辞など、単語を分解して意味や成り立ちをまとめた本
英語を読み解く時に「universe」と「uniform」で「uni-」が接頭辞で「唯一の」とかしういう意味がある…。というような本。
分類別で、接頭辞などがあり、そこに具体的な単語例が載っているような本。受験時代にプレミアム英単語的なもので見かけた気がするんだけど、実家中探しても見当たらなかった。英語でもいいんだけどできればラテン語由来にして欲しい。ラテン語由来の言語で使い回すので。
人名の意味シリーズ
古代ギリシャ人の名前が結構覚えづらいというのもあって、古代ギリシャ人の名前の意味をまとめた本があったらいいのになあ…とよく思う。
このシリーズは別に古代ギリシャ人だけじゃなくて、他の人名・言語でも面白いと思うので、各国の名前シリーズがあれば、かなり楽しい。
特に、偉人・有名人の簡易プロフィールと併せて書けば、人柄と名前との対比も面白いし、雑学の本としても楽しめる。
また、古代ギリシャ人の名前は男性名だとSRNで終わらなければならないという記名法?があったりして、そういうのもあると面白い。
(他にもあったはずなんだけど、思い出せないので、思い出し次第追記予定)
友人との会食。
今日は俺の唯一の親友(中学時代からの付き合い)と、食事に行ってきた。本当に長いこと喋った。お互いの現状や、今後1,2年の予定だとか、観てきた映画ジョーカーの話とか、そういうことを気持ち良く話してきた。
そこでの話で、俺があまりに感極まって泣いてしまった話があるので、ここでも書いておこうと思う。
その前に、ざっくりと俺の過去を振り返っておく。(これに関しては今度youtube動画で詳細をまとめる予定)
まず、俺は17歳で失恋して、今の自我の核ができるまでは、凄くひねくれていて、生意気で世界のことを分かったような態度していて、後ろ体重で、とにかく嫌なやつだった笑。自分で書いてて恥ずかしいけど、本当にそうだったから。
失恋は彼女にフられる形だったのだが、彼女がずば抜けてカワイイ上に、性格もとても良くて、はっきりと聖人と言えてしまう人だったのを振られた後に知ることになり、それが俺の人生を変えた。本当にそんな人間がいるのかと。そして自分はいかにひねくれているのかと。そこから起きて寝るまで彼女のことや、人生のことだとかを考え始めて、そこで今の自我が形成された。だが、自我ができてすぐにどうこうなったわけじゃなくて、高校を卒業するまでの間は、結局ひねくれを抜け出す途中という感じだった。
そして、話は友人との会話に戻るのだが、友人がボランティアで中高生に学問を教えていて人生論とかの話になった時に、「そこでひねくれているやつに“本気(本気と書いてマジ。真正面から生真面目に話すこと。)”で言っても、全然響かないというか、斜に構えられちゃったりするってのは、俺らの学生時代を考えたら、俺らもそうだったし、まあ仕方ないっちゃ仕方ないことだね笑」と言ったところから始まる。
俺はこう返して、そして泣いた笑(この話は電車内でしていたのだが、普通に喋りながらワンワン泣いていた笑。まあ、割とあること笑。)
「俺が今思う学生時代の後悔ってのは、本気になってみれば良かったんだということやね。なんだか、自分が社会とか学校に対して、斜に構えたり、後ろ体重でいたり、ひねくれたりしていることが、“スマートで賢くて、そして正しい”と思っていたんだけど、今思うと本当に馬鹿らしいよ。当時は教師を教師一人一人と思ったりしていなくて、そこで勝手に“教師”というくくりにして、そこで真面目に取り合わないことがかっこよくてスマートだと思っていた。それは本当に失礼なことであるし、俺が嫌う個人間のコミュニケーションに社会を介在させてくる人間と同じことじゃんかよって。例えば校則に対する理不尽(男女交際禁止だったしね笑)とか、指導の上で納得いかないこととか、そういうことに対して、俺が本気で教師もとい学校に訴えたこともないのに、それをやる前から勝手に「俺の話などどうせ聞く気もない。あいつらは“大人”としてもっともらしいことを言うだけ」と決めつけていた。そういう勝手な決めつけは今の俺が本当に軽蔑する偏見そのものだ。だけど、当時の俺の気持ちが分からんではない。というのは、自分は一応中高一貫校の進学校に通っていて、それで何となくよさげな大学に進学して、そこそこ良い給料の会社に就職して、そしてそのまま自分が“スマートで賢くて、そして正しい”大人になっていくというレールの途中にいると思っていた。だから、俺は自分が本気で教師や学校に訴えたら、潰し返されるんじゃないかとか、俺の人生が途絶えるんじゃないか、馬鹿にされて社会(学校)から蹴飛ばされるんじゃないかとか、そういうことが不安だったんだ。だけど、大人になってみたら、世界はもっと広かった。俺が今本気で生きるということをもがいているように、おそらくあの教師達の中にも、そういう本気の人はいたんだ。そういう人達との関わりを俺が勝手にひねくれて遮断していて、それは本当に失礼なことだったし、今俺が嫌う“社会・大人”そのものだった。おそらく、俺が本気で訴えても、それは広い視野で見れば、そんな大げさな(人生が途絶えるような)ことではなかったんだろうし、確かにみんなが認めてくれたりすることは考えにくいけど、それでも受け止めてくれる、取り合ってくれる教師はいたと思うと胸がつまる。あのときとか○○先生だとかは、多分そういう接し方をしようと努めてくれていたんだろうと。それは本当に申し訳ないことだった。」
初めまして、さようなら
setoshunnosuke07.hatenablog.com
これの続き
部屋を見渡して、なくなったら困るものが究極的にはない。
どこか、いつも先にお別れを済ます。物も人も概念も、あらゆる接続を、先に切断しておく。(そのシミュレートをするという方が正しいけど。)
こういう感覚自体は前からあったような気もするし、
setoshunnosuke07.hatenablog.com
なかったような気もする……。
昔は、お金持ちになったら、自分の家を建てて、地下に最高の音響環境を構築したスタジオを設けて、そこでいつでも勉強もできるように大きな本棚に自分のお気に入りの本を並べるぞー!とか思ってたんだけど、なんかそういうことは割とどうでもよくなってきた。
俺自身の所有に対する感覚がだんだん変わりつつある。なんというか、究極的には今の自分の所有物が全て消え去っても別に良いと思ってる。別にミニマリストになりたいとかそういうことではなくて、もう全部お別れが済んでるんだよね。
なんか、身軽になりたい訳でもないんだよな。これは俺自身と俺自身以外との距離感に近い…というか。なんか俺の今の波長的にそうなんだろうというだけなんだと思う。(それを言語化しろって?手厳しいね…笑)
空が近い時と遠い時があって、それは雲の位置とか星の位置とか、そういうことなんだろうと思ってたんだけど、そうじゃなくて俺が近くなったり遠くなったりしてるんだと最近気づいた。変な言い方なんだけど、朝の俺と朝の空、夜の俺と朝の空が比較できたら、それが明確に体感できるんだと思う。
— 瀬戸駿之介 (@setoshunnnosuke) 2019年10月11日
今書いたのは物に対する話だったけど、これは人に対しても思う。人とのお別れももう俺の中では済んでいる。俺には親友とかもいるのだけど、親友とのお別れも俺の中では済んでる。既に別れた未来を想像した。しただけで全然別れたいとは思ってないんだけど。でもその時がもし来ても驚きとかはないんだろうと思う。もちろん悲しいけどね。
いつでも先に想定される不幸は一通り頭で走らせる。この癖をなおしたいとは思わないけどあんまり好きな癖でもない…。
前の記事に
書き終わってすぐに思ったのだが、これは、切り離せば愛着が沸く自分の身体に、切り離す前は愛着が沸かないということになる。俺の愛着の距離感、美しさの距離感、これらは追考する価値がありそうだ。
とあったんだが、これを今解釈し直すと、俺の腕は俺自身にあるとき、俺自身であるが、俺自身から離れたときに、俺の子供、分身になるのだろうと思う。もっと丁寧に言えばその腕は「過去の自分」になる。俺は過去の自分を慰めてやったり、抱きしめてあげたりしたいんだろうと。切り離した左腕を愛でながら、間接的に過去の自分と仲良くしたいってことなんだろうと今思った。なるほどね…。
メモの場所、ツールについての備忘録
どこかに書いたことは覚えているのだが、どこに書いたのか分からないものが多すぎる…。パッと浮かんだ時の質感で書く場所決めてるから、どこに放り出されるかがその時のノリなんだよな…。TwitterとKeepとSimpenoteとブログがネット上のメモ媒体、机のB5コピー用紙が手書きのメモ媒体。
— 瀬戸駿之介 (@setoshunnnosuke) 2019年10月11日
っていうか、この「どこに何を書くか」というのは、多分俺の中で割と明確な分かれ方しているから、それをちゃんと言語化したら、それを基にメモの場所を逆算できそう…。ちょっとまとめるか…。
— 瀬戸駿之介 (@setoshunnnosuke) 2019年10月11日
ということでまとめようと思う。これは意外と大事なこと。
(さっきpocketを使って色々と記事を読み直していたら、これが出てきて、良い機会でもあるので、おまけで紹介。)
過程
メモをする段階で、どのような過程を辿るのかも丁寧に書いておこう。
①言語として浮かぶ
②ちょっと掘ってみる
③メモする価値があると思う
④メモしようと思う
⑤どこにメモしようか考える
これは正のメモの形である。そうじゃないメモもある。というのも、“これについて考えたくないからメモする”もある。頭の中でうるさいから、追い出す感覚に近い。忘れるために書く。忘れるためのメモ。その過程もまとめるか。
①言語として浮かぶ
②ちょっと掘ってみる
③掘りがいがある、または楽に掘れそうであるが、これは今やりたくない(やる必要がない)
④忘れすためにメモしようと思う
⑤どこにメモしようか考える
こんなとこか。
さて本題。ここを明確にしておくことで、後で自分がどこにメモしたかを辿りやすいという効果が果たして本当にあるのか…。とりあえず書くか…。
メモ媒体
Twitter(パブリック)
基本的に140字を超えないと感じた簡潔にまとめられそうなもの。
または、良い言い回しが思いついた物が文章であったとき。
あと、今にも忘れそうで書き残しておきたい時に、アクセスしやすい場所にあることが多い…
通常ブログ記事(パブリック)
今までの点が線になりそうな感覚が少しでもあったら、とりあえず記事として書き始める。それが収束しないこともあるが、書き始めてから困ると嫌(ツールに引っかかることで勢いが死ぬのを恐れている)なので、記事にする。割とクオリティが高くなりそうと思ったこともここで書く
ツイートの代わりブログ記事(パブリック)
setoshunnosuke07.hatenablog.com
何だかわざわざ記事にする程でもないのだけれど、140字では収まりそうにない(書き始めた時点では分からない)ことで、それでいて、書きながら掘り下げようと思うようなこと
Keep(プライベート)
良い言い回しが思いついた物が詩的・歌詞であったとき。
基本的に歌詞を書く。まれにコピーも書く。
Simplenote(プライベート)
完全にエッセイ集を書くための執筆のため。腰を据えて文章を書くための場所。ブログが稼働しはじめてからは、あまり使うことがなくなってきてしまっている…。
B5コピー用紙(プライベート)
今すぐ書きたい
手書きで書きたい
気を紛らわしたい
感情的な“文章”を書きたい・書き残したい(文字それ自体に宿るので)
などか。
手元に紙がなければ、ipadのGoodnotesに書き殴ることもある。書くということの感情表現を済ましてしまいたいという感覚が強い時は大体手書きにする。感情が強いとキーボードでは収まらないから。
まとめ
俺が文章を書く時は、言語の発火を書き留めようとするときと、「何もしたくないんだけど、サボりに該当する色々はやりたくない…」っていう逃げのパターンの2つが主。書くこと自体が自分にとっての評価でしかないから、今は仕方が無いね。誰も読んでないし。
— 瀬戸駿之介 (@setoshunnnosuke) 2019年10月11日
書くこと自体が仕事の一部になったら、もっとましなクオリティになるのだろうけど、今は自己目的的な消費でとりあえずいいやという感じか。
アーティスティックに考えるなら、自己目的的な消費的文章で何ら問題ないんだけど。でもそういうのは作詞でやってりゃいいわけで、文章はある程度は人に読まれることを前提に書いておきたいとは思う。未来の自分も読みにくいと困るしね。(少なくともパブリックなメモに関しては)
数えられない、言葉にできない、人に話せない
数えられないならば無いのか。言葉にできない事柄、時間は、そのまま数えられないことにつながる。そうするといわゆる「何もしていない」と感じることになるが、もちろんそんなことはない。何かしていたはずなんだ。言葉にできない、人に話せない、数えられないということは別に不幸でも虚無でもない。
— 瀬戸駿之介 (@setoshunnnosuke) October 11, 2019
スケジュール帳も日記も捨ててしまえばよいと思う。“残す”は残るものだけの存在を数えることに等しい。残らないことも確かに“在った”でしょう。そういう言語の切断処理はいつだって手段であるだけなんだよ。
— 瀬戸駿之介 (@setoshunnnosuke) October 11, 2019
これについて補足。
別に、書くことや自分が他人に話すこと、数えることが、負担になっていないなら、この話はどうでもいいのかもしれない。
だけど、俺が最近思うことは、やっぱり言語上の切断処理がどうにも気にくわない。
言葉を作るというのは、スポットライトを当てる感覚に近い。別に、ライトが当たってなくてもそこには在るのだが、ライトを当てると、そこに在ることが確認される。
— 瀬戸駿之介 (@setoshunnnosuke) September 24, 2019
この前、こう書いたが、これも補足すると、スポットライトを当てる作業は、スポットライトが当たっていない部分を切り捨てて考えるということでもある。
どこかに書いた気もするのだけど、虹は7色だろうか?あそこに見えるのが可視光の全てであるとしたら、それは無数の色のグラデーションがある。7色と言ってしまえば、そこにある色はそれぞれ7パターンに近似されて認識されてしまう。これが切断処理。
もっというと、“虹”も切断処理。空でもよい、酷く言えば宇宙でも。まずはこれを切断処理であると、言語化とは切断処理であることを認識する。そしてそのあとは、切断処理を捨てるか、切断処理を残すか。捨てるのは容易ではないだろうが、捨ててもいいと俺は思っている。技術のおかげで言語体系から逃れることができるようになっていっているのは明白で、もっと新しい世代になればなるほど、言語的な切断処理を超えてくるコミュニケーションは圧倒的に増えていくことは容易に想像がつく。だが、所詮は現代人なので、もうそういうことは俺個人に限って言えばかなり難しいのだろうと思う。残すなら、切断処理と【切断処理の反対の処理に後で書き直す】とを交互に行き来することも意識的に行う。そうするしかない。
俺が昔、フィクションの鎖と呼んだものをここにも書いておく。フィクションの鎖とは、フィクションを消費することによって、自らがフィクションに縛られて行動していく、また、自らがあらゆることをフィクションを通して感じ、考えるようになってしまうことを言った。これは俺が19ぐらいの時に考えたと思うのだが、俺はこれをフィクションの鎖と呼ぶ以外の訳し方が分からなかった。そして今もいまいち思いつかない…笑
というのも、ここでいうフィクションはノンフィクションとの区別ではないので、そこが不適当に思う。フィクションというより“お話”、“ストーリー”、“物語”などでよい気もしてしまう。だが、重要なことは、人為的に作られた文化的な背景がある物に影響を受けることが言いたかったわけで、それが実話でも語られる時点で人為的な?視点が入るということが言いたいけど、そのニュアンスを含む言葉が思いつかない…。
フィクションの鎖は、自分の感情自体がフィクションに影響されて浮き上がってきたりしてしまうとかもそうだし、自分の行動もフィクションに寄っていく。つまり、フィクションとして処理できるような、動き方をしようとしてしまう。行動自体を語りたいという欲求が出てくる。
だが、自らの欲求を見つめた時に、それが語れるか語れないかということは本来どうでも良いことであるように思うんだ。だから、まずはそれを認識して、フィクションの鎖があることを踏まえた上で、欲求を見つめることをする必要があるように思う。
あー何が書きたかったか忘れた。なんかここで切断処理に関する全てをまとめておこうと思って書き始めたのだけど、書いてる途中にやっぱり忘れてしまう。また今度…。