痛みは本物だ

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音楽理論その2

 

setoshunnosuke07.hatenablog.com

 音楽理論その2として。

 

音楽理論というのは、結構順番が大事で、いいとこ取りのつまみ食いみたいなことは割とやりづらい。(もちろん、理論は既存楽曲からの法則をまとめている側面もあるが、)理論の発展は理論から起きることも多いので、いきなり飛ばせない。(「Aが成り立つならB、Bが成り立つならC」という具合)

 

以前の記事の例えを使うなら、音楽理論は発展的に(高度に複雑に)なっていけばいくほど幹から遠ざかる構造になっている。

 

ここで注意すべきは、音楽理論の複雑性は音楽のための複雑性ではないということ。

 

音楽理論的に高度であるというのは、幹から遠い場所にあるというただそれだけであって、それが実際の音楽において重要な要素を担っているかどうかはまた別の話である。

 

なので、音楽理論は途中で名曲を通り過ぎる。途中からは名曲とは関係のない理論における高度さを求めていくことになるからだ。

 

だから、作曲家は途中で自分が思う名曲について向き合う方に時間を割くべきだ。(理論を学ぶ必要がないとは言わないが、配分を考えなくてはならない)

 

理論は名曲を向いていない。だが、それは“理論”のアイデンティティを考えれば仕方がないことで、理論は理論というだけあってある程度の普遍性を求められるから、人によって解釈が分かれすぎてしまう名曲のようなものを枝に設置はできないのだ。

 

プロの作曲家は自分で名曲の方を向いて理論的に分析している。作曲家の仕事の一部として、それが組み込まれていると言っても過言ではないのだが、個人的にはここにプロ音楽理論アナライズ家がいると良いのではないかと思う。つまり、理論の高度さや複雑性を向いた音楽理論ではなく、名曲を向いた音楽理論を作るということ。

音楽理論知的財産権などないので、これを作った人は大して儲けることもないだろうが、そこにはかなりの需要がある。というのも、初級者からプロの作曲家まで使えるような理論になるからだ。初級者は今までならプロの作曲家が自前で行って来た名曲のアナライズからセンスや感覚に落とし込んでいた部分を学習によってスキップできるし、プロの作曲家は自分でアナライズする時間を作曲側に注ぎ込めるようになる。感覚的には、プロ棋士が将棋ソフトを使ってオリジナル定跡を組み立てるための専属プログラマーを雇う感覚に近い。

現実的な案としては、プロ作曲家が集まってチームを組む、そして、その作曲家が役立つようなアナライズをするプロアナライズ家をチームに組み込んで活動する…。それが理論として世に出せるぐらいの量になったら、外部にも出して売ってみる…という感じか。