この世界に対する希望
この世界に対する希望。
俺は、どこかで健全な動きをしているコミュニティがあると信じている。健全というのは、能力や結果が正当に評価されるという意味であり、ある感情の自然な発露自体が一般に受け入れられるという意味でもある、まあ俺の思う全ての健全を含む。
何故、そう思うのか。それは願望という側面もあるが、もし俺が優秀で、既にある程度の影響力なり、コミュニティを形成する力を有していたなら、そのようにしただろうと思うからだ。そういう人が多いとは思ってないけど、この世界のどこかで、そういう場所を作っている人がいるんだろうと。
だから、どこかで本当に自分がヤバくなったとき、もっと言うと、何かを欲したときに、自らが歩き回れば何とかなると思っている節がある。この世のどこかにはヴィンランドがあって、そこでは俺の思う健全なコミュニティがあると思うんだ。それが作られるぐらいの時間は人類にはあっただろうと思っている。
歌詞の扱い
歌詞をどこでどう出すか。
私は歌詞を書く。特に理由などなく書いている。もう随分と、常時そのような頭の動きをしているので、恐らく死ぬまで書き続けているのだろうと思う。普段、曲を聴いている途中に、気にくわなければ頭の中で添削したりもしている。
最近、ぼんやりとした不安がある。それは自分の書いた歌詞をどのように使おうかということだ。というのも、自分の作曲ペースなどを考えても、恐らくこのままでは書いた歌詞を使い切る前に死んでしまう。
じゃあ、それは文章としてどこかに書けば良いのかと思うかもしれないが、私は書いているのは歌詞であって、詩でも随筆でもない。
歌詞は歌の中にあって輝くものであって、音もつけずに紙に印刷したり、肉付けして文章にしたりしても、意味がないからだ。それでは別のものになる。
ここに
「許せなくなった」
こういう歌詞がある。
これは良い歌詞である。(それが分からないならこの先読んでも無駄である。と厳しく言ってしまいたい程である)
これが詩だとどうだろうか。
詩にするには難しい。空白のページにこれだけが書いてあって、良い詩と思うか。それは無理があるだろう。挿絵があれば、成立するかもしれないが、それは挿絵のサブタイトルに降格しているにすぎない。
では、肉付けして文章にしてみようか。
何を、何が許せなくなったのか書いてみようか。いつ許せなくなったのか書いてみようか。それがどうして許せなくなったのか、それまではどのように思っていたのか書いてみようか。言うまでもなく野暮で馬鹿馬鹿しい。
歌における歌詞とは核のフレーズが1つあるのがオーソドックスで、最大でも3つぐらいだろう(3つもあるのは稀である、また、1つもないものもあるが、それは高等テクニックなので省略)。実は核以外は肉付けである。
それが分かると、今度は「許せなくなった」が核になり得ることが分かる。ここまで来れば、これが良い歌詞だと分かるのではないだろうか。
そして、同時に詩や随筆、その他の形式にはなり得ないものであることも分かる。これは歌詞であるから成立している。
となると、やはり歌詞としてしか使い道がない訳で、そうなると自分がリリースする曲だけでは使い終わる前に死ぬわけで。使い切れない分は作詞家として詞を提供するようにしていくしかないのだろうか…。いや、実はもう一つ考えていることがある。
歌詞が詩などと違うかはもう書いたとおりだが、そこには歌があって、人の色、匂いがこびりつくからである。だから、そうしてしまえば歌でなくても成立するのではないかと思う。具体的に言えば、俺が壁に書いてしまえば、それでいい気もする。だが、そうなると、その時間で曲がかけるわけで、大して意味がない……。
もしかして、もっと曲が書けるように鍛錬すればよいのでは…!?!?
気づいてたよ…。そんなこと…。
はあ、これも息抜きなんだよ。この記事だってさ。はいはい、分かりました分かりました。
好きなタイプ
今、気づいたのだが、俺の女版は「普段はワルだが、仲間には優しいヤンキーが好きな女」(ヤンキー好きな女)なんだと思う。
どういうことかと言うと、俺は「社会的には(嘘も混ぜて)やりくりするが、自分にはそれをしないで本音を喋ってくれる人」が好きで、しかも、俺の中での罪悪感のポイントが“社会的には(嘘も混ぜて)やりくりする”にあるので、前述のヤンキー好きな女に構造的には一致する。
なんだか、「社会的には(嘘も混ぜて)やりくりするが、自分にはそれをしないで本音を喋ってくれる人」と書くと普通な気もするのだが、それらに対する俺自身の価値観や、俺が思う“頼りに思う人”の能力に“社会的には(嘘も混ぜて)やりくりする”がある(そういうことの欺瞞性に俺は耐えられない)ので、
俺自身正面に見つめて考えるよりも、ヤンキー好きな女から敷衍して考える方が、より分かるかもしれない。
ヤンキー構造の妙は大きく二つ、「①(おそらく)ヤンキーの対外的な攻撃性を雄の強さとして認識しており、②しかもそこに自分が仲間として承認を受けている」という2つがある。
そう考えると、俺も「①女性の対外的な社交性を雌の強さとして認識しており、②しかも、それ自体の欺瞞性自体に自覚的である(自分にはそれ(欺瞞的でない、ヤンキーでいう攻撃性)をしない)」ということを魅力的に思っているのだろうと。
んー、なんか、気づいた!と思ったときは記事に書こうと思ったほどだったが、書いてみたら、たいしたことない内容な気もするなあ…。まあいいか…。
夢の体験を現実のことだと勘違いする現象
俺は夢が現実の記憶と混ざることが多くて、今までの人生で現実の記憶と思ってたら夢の体験だったことが3回ある。
1度目は「家で焼いたホットケーキを食べきれずに、残りをラップして机の上に置いておいたやつがあったなあ~、腹減ったから食べよう」と思ったら、それは夢の話で、現実にホットケーキなかった。
2度目は家の近くのマンションの一階が工事中で、ドラッグストアができる予定になっていたんだけど、そこが開店した夢を見て、「あ、そういやあそこオープンしたから行ってみよう」と思って行ってみたら、まだ工事中だった。(ちなみにその夢で見たオープン後のドラッグストアと、実際にオープンしたドラッグストアは景色が全然違ったので、予知夢とかではなかった…笑。)
3度目はあったが忘れたので、嘘のオチ書く。
3度目は今も普通に生きてるって夢見たんだけど、現実の俺はもう死んでるんだよね。
自傷行為
奨励会員や棋士って、結果を出せずに病むと自分で負ける理由を作ってしまうことがあるんです。たとえば酒に逃げて「こんな駄目なことをしているから勝てないんだ」と言って、自分を納得させてしまうんです。これってすごく良くなくて。弱いから負けるのに、逃げてしまうんですよね。
「自分がこれだけダメ人間で勉強していないから勝てないのであって、自分が才能がなくて弱いわけではない」と逃げてしまう。弱くてもダメでも負けたら同じなんですけど、難しい屈折をするんです。「自分が弱い」以外の勝てない理由付けを作ってしまうんです。「じゃあ勉強しろよ」って話なんですけど。そのサイクルに入った人は抜け出すまでに時間がかかるんですよ。
時間があれば放っておくのがいちばんなんですけど、(年齢制限のある奨励会員など)時間がない人の場合は誰かが何かを言わないとダメなんですよね。
どこかに書いた気もするが、恥ずかしい話、俺はこれだった。俺の場合は酒ではなくてゲームと絶望を反芻させる2軸だったと思うのだけど、こういうことは、構造的に言えば自傷行為だ。結局、本当に結局抜け出すまでに、波があったとは言え、5年ぐらい経ってるのではないだろうか。
何で抜け出せたかもどこかに書いた気もするんだが、どれだったか…。後で再編集しておこう…。
よくない習慣
setoshunnosuke07.hatenablog.com
これの続きみたいなので、今度はよくない習慣、止めた方がいい習慣を書こうと思う。
同じ曲(同じ傾向の曲)を何度も聴く
感情を固着させると、鬱になりやすいというのが俺の見解。なので、なりたい感情ありきで曲を探して聴くのはあんまり良くないと思う。
イライラする対人ゲーム
シンプルに対人ゲームでイライラするタイプのものはダメ。身体が熱くなること自体がそれでしか得られない快楽と解釈されて、割と長いこと癖として定着しちゃうことがある。煽って勝つ、なめプして勝つみたいな、そういうことが風土としてあるゲームは端からやらない方が良い。そういうゲームがどうしてもしたくなったら、そのゲームの実況動画を見て茶を濁せ。
座る
座っていることは実は悪な気がする。まあ、俺ほとんど座ってるんだけど。意味なく座らない方が良い。理由がなくても立ったり歩いたりしよう。スタンディングデスクが気になる。
(書きかけ)