痛みは本物だ

エッセイとかコラムとか

ツイートの代わり

・「会おうと思えば会える」は「会いたいのに会えない」と「会いたいと思ってないから会ってない」を明確にした。旧友を思う時に、なぜか辛くなる。

 

・大量殺人犯などを「不良品」だとか、言うというのは、「同じ人間ではない」と言いたいわけで、これらは自らが持つ攻撃性への恐怖であるように思う。人間を人間として見つめられず、都合良く人間を切り取っていこうという歪みがそこにはある。トラウマなどは別にして、性嫌悪なども、同じ構造が多いように思う。

 

・怒りの始めには対象があるが、怒りが定着すると対象を失い、怒りは常態化し、対象を探すようになる。常に怒ってたりしている人は、もはや対象を失っており、怒るための対象を探している。

 

・今から日本が常夏になったところで、俺の感覚から四季が消えることはなく、それは四夏になる。その程度には四季が体にしみこんでいる。

 

・人に話しやすい人生を送ろうとする欲というか、(要検討:フィクションを大量消費したことによるフィクションの鎖)のようなものが、あって、そうなると人生の行動ベースに「他人の目」を基盤とした「話しやすい人生・語りやすい人生」が追加される。例えば、生きるために、自殺未遂をするとか。そういった自殺未遂の事実がある方が生きやすいという人だったりが。

――それは言語化という行為それ自体に紐付いている感覚を今日(20190623)得た。なるほどな。言語化しようとする行為自体がそれを発端としている、源としている気がする。

 

・忙しいという言葉それ自体にそもそも他者への説明が内包されていることがおかしいように感じる。例えば自らが思う何かについて考えているような時間を長く持っていること、それは当人にとって忙しいが理解されないということが、忙しいという言葉自体に「一般的忙しさ」を求められているように思う。

 

・もう今年で24歳。俺が12歳になってから12年経った。

 

・他人に説明しようとする欲なるものについて考えていた時に、自らでまた響く瞬間があった。というのも、自分が母と接している時に、いかに母の性格が悪いかを説明したくなり、未来のそのシチュエーションのために、説明する材料を集めていることに気づいた。それはある種自ら苛立ちに向かっている面もあり、非常に不健全なサイクルに思う。また、それはなんとも悲しい構造で、俺の人生は別に母の性格の悪さを伝えるために存在しているわけではないため、なんとも馬鹿らしい癖が身についていたわけだ。そう思うと、俺は未来のいつかで、母に関する問いをおそらくされ、そのときにいかに納得してもらうかを準備してきていたわけだが、それについて俺はもう分かってもらうことを諦めようと思う。説明もしない、別に自らを理解してもらおうともしない。ただ私は母が勝手に嫌いなのだと。分からなければそれでよい、それで俺自身を理不尽に思ったり、俺自身の性格が悪いと思うなら、それも仕方ないと。それは過去に俺がこの場でそう思われることを受け入れ、過去で良く生きた結果なのだからと。今さっきそういうことになった。

 

・人生について「やり直す」とか「リセット」とか、そういう言葉の魅力について考える。そもそも何事も「やり直す」ではなく、行動としては「やり始める」であるのだが、本人の意思としては「やり直す」感覚なのだろうと。それは連続した自己との決別の意味がある。

行動それ自体へのやる気や希望よりも失ったものへの執着の方が強い。失ったものへの執着は個人的にはここ最近のテーマである。

 

・コミュニケーションは基本的に脳死。例えば、挨拶は脳死で、挨拶をすることが目的になっており、挨拶をして、相手が挨拶を返してこなかったら「やばい」とか判断したりするわけだ。コミュニケーションは基本的にその延長の作業が多く、大体が脳死で、他者を理解したり、自分を理解してもらったりするのは、ある種カウンセリングに近い。それは場や関係が整ってないと成立しないわけで、コミュ障と呼ばれる人は、そういう部分において、場違いで関係違いであることが多い。つまり脳死な場や関係で脳死でないコミュニケーションを取ろうとする。なお、脳死コミュニケーションの代表は美容師。

 

脳死が社会を形成しているのだと思う。あらゆる実績や名誉なるものは脳死のたまものであって、そんなに誉められたものではないように思う。

まず先にSNSが何で嫌いだったかを説明する。俺はネットの友人だけが見ている匿名アカウントをTwitterに持っていた。だが、これに何かを書き込むのもどんどん嫌になっていった。Twitterはつまるところ「かまってほしいと言わずにかまってほしいと言う」ような構造になっており、その欺瞞性に耐えられなかった。そこが脳死ポイントだったのだが、自分は途中で気づいた欺瞞性が辛く、脳死側に合わせられなかった。今ならそれは俺自身の一方的断絶であると言えるのだが、当時の自分はもはや脳死側を「考えの足りない者」として見下していたように思う。欺瞞の塊であるといったような。実際に言うことはなかったのだけれど。

それの延長で、自分はSNSをしている女性も嫌いなタイプだった。というか好きなタイプはSNSをしていない女性だった。だが、最近はそう気にならなくなってきた。というのも、現実と折り合いをつけて生きていくというような欺瞞的脳死プレイを社会との近づきとしての視点を持てるようになったからだ。つまり、“誠実にストイックに自らの行動を構造的に把握し直すことを続けることによる寂しさから脱却したいという気持ち”に共感できるようになった。寂しさが動機であるとなると、途端に共感できるようになった。社会全体が脳死構造である以上、自分も誰か(社会でも何でもいい)と仲良くしたいと思ったときに、自らも一定の脳死を受け入れる必要があるのだと。そういう儀礼要素は人間の非合理な部分の共有であって、そこに乗るというのが社会というものなのだろうと、今は思う。そう考えると、今までの自分は随分傲慢だったように思う。というか傲慢だったのだ。社会の欺瞞性、非合理な部分、儀礼要素を外から見下して自分は違うとイキっていた訳なのだから。幸いにも?誰にもイキり散らさなかったので、ここで言わなきゃばれなかったことではあるんだけど笑

 

・ネットがコミュニケーションの中心を担うようになってきたせいなのか、昨今はどうにも“素直”であることが何よりも重要であるといったような印象を受ける。これは当初自分も良い傾向のように感じていた。自らも変に固く振る舞ったりするのも好ましく思っていなかったので、素直さが良いとされる社会は単純に喜ばしいのだと。

だが、なぜそうなかったのかを考えていると、なんだか不安になってきた。というのも、もしかするとネットが生み出した“正しさ”の延長に“素直さ”があるように思えてきたのだ。正しくあること、品行方正であること、それすなわち素直であること。といったような。そうであるならば、こんなに気持ち悪い話はない。素直であることが正しいなんてことは全くもってないのだ。正しさなどない。

インターネット論客界隈では、どうやらないはずの“正しさ”について語り合っていて、どうにも気持ち悪い。元より正しさなどないのだし、それでいてまるで自分が正しいかのような振る舞いをするその傲慢さ、また、「人の数だけ正しさ(正義)はある」といったような正義教も反吐がでる。「お前が仮に正しかったとしても、それは人の数だけ正しさがあって、“俺自身も正しいのである!!”」と言いたいのだろう。そんなことはない。おそらく人類というのは、正しさなどではなく、利害で歴史を刻んできたのではないだろうか。今のインターネットの関係性では匿名すぎて、利害を確認し合えない。だから、空虚な正しさの論争だけが飛び交い、不毛に傷つけ合っている。

 

・素直さや正直さというものの価値が異様に上がっているように思う。現代。優秀であるかとか、そういった部分よりもいかに正直で素直で嘘をつかないか、そういうことがとても求められている時代に思う。

 

・例えば、被害者と加害者の犯した罪が二者間で完結していた時、その罪を被害者が許すかどうか、それを許したところで、誰も被害者を誉めることもなければ、尊敬することもない。いや、そんなことよりも、加害者が犯した罪はどこにいったのだ。そいつだけは許されていいのか。そんなことばかり考えている…。二者間の関係で簡単な復讐や断絶で済むような話ではないこともある。例えば親子間で虐待。

 

・自分には何でもやれるという無限の可能性を感じる万能感のようなものと、自分は完全に無力でこれから先何一つできることがないという絶望の無力感を本当に高速に入れ替えながら日々過ごしている。量子、モーターのように。

 

・未来への不安を考えずに今現在に集中することが幸福や精神の安寧に重要だとすれば、例えば親や同居人が不安材料であるとき、それは脅かされるだろう。つまり、親に対して不安を抱く、親自体が危険そのものであると子供が認識しているとき、今現在に集中することは難しく、また楽観的な考え方もできなくなる。それは恐らく緩やかに固着していくような感覚であり、自らが幼き頃、若き頃にそのような体験を長らく続けていた場合、それが危機が去った後でも(親元を離れても)、他の危機を見つけて同じように日々に不安を抱え悲観的になることも容易に想像できる。

 

・これは俺個人の話であるから、人間に敷衍できる話ではないかもしれないが、同じ曲を繰り返し何度も聴くという現象が長引くとき、それは鬱の前兆であるように思う。これを俺は感情の固着と呼んでいるが、一定の感情に定めていたいと強く思う時(それは単に今の感情からの圧倒的な逃避欲のようなものであったりもする)、それは自らが思う強い快楽を得たい(得なければ自らを保てない)という状態なわけで、かなり危険に思う。

 

鬱病になったことで得たことは自らの思考と自らの愉悦はトレードオフであることを知れたこと。そして鬱病にならないためのステップと鬱病になるためのステップが自らでつかめたこと。そして、鬱病にならないためのステップを繰り返すということは、シンプルに社会に溶け込んでいき、自らがスキルアップしていくということ。所謂幸福をつかむ(感じる)には、それが王道であり、最も早いということ。非常に残念なことに

それらは自らの思考の速度広さ全ての思考能力とトレードオフであったので、私はどうやら今の自らが考える自らの思考能力のようなものに誇りや自信、自負があったが、これ自体に報われることは今後もなさそうであるということ。人には「変革自体を恐れるな。ありのままでいい世界とは生きているとは言わない。連続性のみが自らを担保するのだから」などとのたまっておきながら、自らは変革すること自体に非常に足踏みしているのだから笑える。いや、変わろうと思っていたが、それは俺に取って緩やかな精神の好転と共に、本当に小さい積み重ねのようなことであって、今日、明日変わることなどではないのだ。人は緩やかな変化を持って、緩やかに自らの癖を上書きしていく。そのステップを俺は祖母、父、妹から受け取っていたように思う。それは良いパスであって、尊いものであった。まあここまで書いたのだから、正直に言うと、端的に書けば、母親にストレス発散の捌け口に使われた(無論暴力的なステップでなされたので避けようがなかった)ので、それ自体に本当に乱されてしまった。もう2週間経つのだが、未だに新鮮なまま怒りを覚えている。みっともない。先月、スカイリム3週目のプレイでカジートを選んでいたのだが、町のオークの市民の台詞が忘れられない。「ノルドが気にくわないのか?結構。だがな、ノルドを殺すことに自分の一生を捧げるのか?そんなのは馬鹿げている。」ああ、そうだよ。馬鹿げているんだ…。分かっているさ…そんなこと…。

 

・太陽の気持ち

最近ふと思うことがある。人間よりも遙かに賢く長い時間軸で物事を考えている存在が、人間は遙かに幼くそれでいて無邪気で天真爛漫で純朴であるというような感覚で見てくれていないだろうかということ。もっと言うと、それは人間ではなくて、私をそう思っていほしいというか。俺が思う苦悩や絶望や、その他の悲哀達を、もっと遙かに遠い世界の遠い価値観で、暖かく、緩やかに見届けていてほしいと。太陽はどんな気持ちなんだろう。

 

・何かが守れなかったとして、そして自分がもっと強くあればと思ったとして。強くあろうとすることは大事なことなのだろうか。とても疑問に思う。強ければ、力があれば?。自分の力の問題なのか。嘆きと力は関係ないように思う。嘆きの発散としての力への欲求というのは、本当に正しいのか。強くあろうとするそれ自体が思考停止の弱い発想なのではないか。ある嘆きに対する回答を一意に定めることそれ自体は単純に弱い。より強くあるなら、強くあろうとするなら、強さ自体がいかなるものなのかを考える必要があるが、そんな無限の層構造に付き合ってられない。じゃあ仕方ないよで済むのか。

 

・ラブソングというか、恋愛詞を書くとき、思いが強ければ強いほど言葉が単純化していき、平凡な歌詞になる。自らの感情を言葉にできる距離感というものがあって、感情が強すぎると、本当にJ-POPの売れ線の歌詞のように、当たり障りなく、ただただストレートで凡作ができあがる。だが、最近は、つまりそういった歌詞それ自体が高度に抽象化された(されうる)歌詞として存在しており、思いの強さを表しているのではないかと思うこともある。感覚的な話で言えば、感情が強い時の歌詞を書くのではなく、何故感情が強いのかを書くフェーズに移行すると、自ずと自己を通して人間を掘り下げることになり、ある程度の深さまで達すると、高度に抽象化された人間なるものが浮かび上がってくる。ほぼ人類と会話している感覚になる。

 

SNSはテンションのズレが起きるから、不快に思ったりしやすい。葬式の時に遊園地の写真が送られてくるような。またはネタで書いたものを真面目に捉えられるとか。コンテンツそれ自体が身内的(ある種ハイコンテクスト)なのに、それら自体に拡散性ポテンシャルエネルギーがあり、ズレが起きたまま爆散するということが起きる。

 

・日本人にノンポリが多いのは、(政治自体をきな臭く思ったり、宗教的だと思ったりするのは、)自己責任論がはびこっているからに思う。政治に関心があるまたは何かの政治的主張を行うというのは、自己責任論ノンポリからすれば「自分の不幸を他人のせい、政治のせい、仕組みのせいにしてるー!」という感じなのではないだろうか。

 

・20190807

今更だけど、ここに羅列してたら、日付が抜け落ちちゃうから、タイトルにすることにした。記載がない場合は、上にある日付が適応されるルールでよろしく。

 

・「○○は普通!異常ではない!だから差別してはいけない!!」ではなくて、シンプルに「差別してはいけない!」なんだよなあ。普通か異常かどうかは関係ない。そんなことはどっちでもよくて、シンプルに差別しちゃダメなんだよ。

 

・女に生まれ変わったら、胸に欲情されたくなくて、巨乳に生まれ変わるのは嫌なんだけど、思えば俺は単に男に欲情されるのが嫌なわけで、女に生まれ変わったら「男の時は巨乳嫌とか思ったけど、女になった後に後悔すること踏まえて巨乳希望しておけばよかったー…」ってなるのだろうか。なんだこの心配。

 

・20190827

もうすっかり秋である。去年も思ったが、夏は本当に短くなったような気がしている。本当にあっという間に終わる。多分これは、単に自分の時間感覚が短くなっていっているのだろうと思う。歳を取ったというわけか…。でも冬はあんまり短いと思わない…。これ考える余地ありそう…。

 

・20190829

人は考えるのを止めるために考えているのだが、その前に死ぬ。

 

・20190906

初体験とか、キスとか、そういったものを「奪う」「奪われる」と表現されることはよくあるが、それはもっと言うと、“人にあげられるもの”という扱いを受けている。貞操は消耗するものという認識があるからこその言葉遣い。

 

・20190908

今更だが、このツイート形式ブログ更新はかなり良い。文字数を気にすることもないし、ツイートみたいに短文で終わらせることもできる。文字数制限があると、滑らかにアウトプットできないので、考えていたことを忘れる。(ただでさえ、自分の思考がタイピング速度を追い越しまくっているので、タイピング速度のラグでアイデアがなくなることも多い)

 

・俺の結婚願望とは、つまりは、人間関係において根本的に“あがり”たいという意味で、そういう欲求が強いのだと思う。自分が浮気を許せないというか、浮気に対して凄く強く感情が動くのは、そういった“あがり”を打ちのめされるからなのだと思う。(まあ、浮気に関してはもっと言いたいことあるんだけど。なお、別に浮気されたわけじゃないよ笑)

人間関係において根本的な部分で“あがる”ということから得られるいくつかをもっと言及しておく。俺は他人のノリ、社会のノリのようなものに合わせて、その場をうまくまとめたり、流したり、明るく納めたりすることが得意である。だが、問題はそれらがとても嫌いということだ。それらは他者との関係において広く浅い嘘のようなものを場に甘えながら吐き続けるようなことであって、俺の衛生観念では許されないのである。だが、不思議なことに、もし、自分が結婚して人間関係の根本的な部分であがったとしたら、それはもっと楽に、気を張ることなくできるのだろうと思う。俺にとって、場のための広く浅い嘘は、それが“広く浅い嘘”であると周知されていればいい…という感覚が強いのだろうと思う。未婚で(というか、根本的な不安を抱えたままで)いるとそれを胸張って言えない自分、そしてそれを他者に説明できない(根拠がない)。だが、既婚で“あがって”いるのなら、その広く浅い嘘は場のためであると周知されており、自分自身が胸を張って嘘をつけるということになる。

 

・20190915

「神頼み」をする感覚が全く分からなかったのだが、今分かった。自らではどうにもならないことを考えていると、無限にそれについて頭を悩ませてしまうので、「とりあえず、神に頼んでおいて、自分はやることやろう」ということだ。邪魔な考え事をメモに書き出して忘れるように。

 

・20190918

スタンダールの恋愛論を本棚から引っ張り出す。これを前に読んだのは高校二年の失恋した後の時、俺はあのとき、自分をどうにか落ち着かせようとしていて必死に読んでいたのだろうと思う。その時のことをしっかり覚えてはいないが、間違いない。何故なら、今まさに俺は自分を落ち着けるために恋愛論を読んでいるからである。この本を正気で読んだことはない笑。いや、俺はこれを読んでるというよりは、検索している。もはやスタンダールの恋愛論の中に俺をどうにか励ましてくれないのか、慰めてくれないのだろうかと、必死になって素早い速度で文字を読み飛ばし、目的の文章を検索しているのだ。そうでもしないと息もできない。

 

・20190919

人に何かを言わずに、自己完結して処理できる人に憧れる。俺には無理だった。

具体的に書いておくと、子供に負けてあげられるようなことであるし、それは対大人でもそうで、その場や他人に共有せず、自分の中の価値観で処理して完結できる、自分が納得するところに拠り所がある…。

それは身につけられるのか、そもそも素質があってのことなのか…。

どちらが先なのかは分からないが、そういう人は、儚いものを自分で見て共有せずに楽しむことができる。具体的には形にならないもの、残らないもので、空や景色、風景、季節柄のもの、食べ物、体験などを、他人と共有せず自分の中だけで楽しんで完結する…。

そういう女性から溢れ出る余裕みたいなものに俺は惹かれているのかもしれない。自分の見栄やプライドのためのくだらない背伸びを黙ってにこやかに見てくれるであろうという期待…のような?自己完結していると、「この人は子供だなあ…笑(もっと好意的なら「かわいいなあ」)」で済ましてくれるが、そうでないと、他の人に話すネタになる…。いや、なんかうまく書けないな。具体例が全体的に下手すぎる。感覚としてははっきりあるんだが……まあ、ここは俺の備忘録みたいなもんだし、こんなもんでいいか。未来の俺が補完して読めばよいのである。

 

・20190920

J-POPの歌詞は占いだな。BUMPもそれに近い。純粋な人には届く歌詞だが、純粋な歌詞ではなく、極めてズルく詐欺師のような作り方をされている…。「ありのまま」とか「本当の○○」みたいな書かれ方をされたら、心底疑ってかからなければならない。作詞をする側としては、逆にそこはキーポイントで、そこをいかに掘れるかが、その作家としての能力に直結する。と、俺は思っているのだが…。これに関しては今からの俺が証明していこう笑

 

 ・20191010

若い頃?というか、4,5年前から最近までは自分の生きる指針のようなものを探していて、確固たる自己を芯として、夢に向かって頑張っていくのが正しくてカッコイイと本気で思っていたが、今では全くそうは思わない。何なら馬鹿馬鹿しいとさえ思う。そんなものはそもそもどこにもなかったのだから。

今では大人になってさえ意見がコロコロ変わったり、自己がぶれまくっている人を見ると「お、カッコイイな」と思うまでになった。そもそも若い俺もそうだったが、揺れ動くこと自体が辛く、自分の足場を基にして、あらゆる波を無視したかっただけだったんだ。そういう“アガリ”を求めていたにすぎない。綺麗なスーツを着て、余裕を持って上品に歩き、どこか嘘を言う雰囲気を出しながら、本当のことを言っている眼差しをする、「私は今までに酸いも甘いも知ってきたので、もう大体のことは分かってしまっているのです、だからこんなにも余裕なのです。」と黙って言う。こんなにダサいことはない。今書いたのは、俺がスマートにモテようとしたら、こうなるよってのを、米長邦夫ベースに笑。例えば、朝にはナヨナヨして自らを酷く卑下し、昼には全ての思考を停止させて、ただただ身体を動かし、夜には無根拠な自信に酔って大語する。これがカッコイイとようやく分かった。この感覚は俺個人の経験で言えば、変に賢くなった先にあった。何だか大体のことが分かった気になっていた後に、どうやら全く分かっていなかったことが分かる。自己自体が絶対的な座標に配置できないことを知る。そういうことの積み重ねで今に至った。下品に言えば不安定の正しさを知った。

 

 ・20200112

中庸とは、一方へ突出した後に反対へ駆け抜け、そのような反発を共存させることによって、初めて意味を成す。考え無しに「人それぞれ」などと宣う相対主義は中庸とは呼べない。それは物事を考える力がないだけである。

 

・20200524

 自己肯定感とかいう現代の胡散臭パワーワード第一位。仮に自己否定感が強かったとして、その自己否定を肯定する感覚は信用できているっていうのが、全くもって意味分からん。無茶苦茶恣意的に自らの人格を言語で切断処理してるだけやんけ。そもそも自己肯定感とか現代の不安ビジネスの味覇みたいなもんやからな。これ言っときゃみんな不安になるわっていうだけですわ。仮にその意味不明な定義に乗っかるとしても、自己肯定感がある人は自己肯定感に関する話を気にとめないが、自己肯定感がない人は自己肯定感という切断処理によって、ますます自己肯定感をなくしていくという仕組み。大体、自己肯定感とやらをメタ的に確認したりすること自体が不健康まっしぐらだとは思いませんか。幸・不幸について考えること自体が不幸を生んでいるとどこかで書きましたが、そういうことです。害悪な概念というか、雑で浅はかな切断処理と言わざるを得ないですわ。そんなもんなくても人は生きていけますので。自己肯定感が欲しいなら、自己肯定感について考えるのやめろ、以上。