痛みは本物だ

エッセイとかコラムとか

『勝間式 超ロジカル家事』ざっと読了。

『勝間式 超ロジカル家事』ざっと読了。

 

 

ゆる言語学ラジオで「栄養と加工の手間と冷蔵庫の占有率などを加味した食材の一覧がある」とあったので、気になって買ってみたのだが、結構簡素で、まあちょっとげんなりした。自炊している人間からしたらまあそうだなという表。

 

個人的には同じ調理器具を二つ買って別々の食材を並列に調理したりしてるのが好印象だった。それが合理的でも同じ調理器具を二つ買う一歩は意外にデカい気がする。

 

たった五年前の本だが、それでも、いかに楽することが悪くないことなのか、手間が正義ではないのかを書いてあって、多くの読者はそういう観念がこびりついているということなのかと心配になった。まあ、自炊をしたことがない人間との間で揉めがちなのだろう。

 

自炊をすると食材を用意するのもメニューを考えるのも洗うのも何もかも面倒だと分かる。ある程度面倒だと分かれば逆算することになる。冷蔵庫の食材、洗ってある食器などから、何が食べたいかでなく何が作れるかで食事が決まる。

 

ではその解決ということでまずは機械の導入で、それは食洗機の導入から始まるだろう。次は複雑なメニューのための加工器具だとかになるのだが、そもそも複雑なメニューを作らなければいいだけなので、複雑なメニュー及び加工が手間な食材もこの辺から弾かれることになる。

 

食洗機さえ導入してしまえば、それが食洗機で洗えるかと加工の手間を減らすためにどれだけコストを払うかという視点だけで調理家電・調理器具を見ればよいので考えが楽である。

 

本書では温度管理できるIH鍋とヘルシオ(スチーム機能ありのオーブンレンジ)だが、温度管理できるIH鍋の最大の利点はタンパク質がカチカチになる手前の温度で調理できるというところだろうが、それは鍋に先に野菜を入れて食べる直前で肉を入れて火が通るまで加熱するしゃぶしゃぶ方式でほとんど同じことができる(ある程度の慣れが必要だけど)ので、ほとんどの場合、導入して大きな変化があるのはスチーム機能とオーブンぐらいだろうと思う。今時最低限の機能のレンジを買わない限り、勝手にオーブン機能があったりもするので、実はスチームか。

 

言われるまで気付かなかったが、食材を意外と蒸さない。蒸すのはとっても手間なので笑。それが自動でできるのはかなり良いね。スチーム機能ありの電子レンジが欲しくなりました。

大人は歩み出さなかった理由を欲している

早速、大人の定義からだ。

 

大人は「歩み出すには若くない」と思っている者である。ここで言う大人というのは、大人と自覚している者を指すので、10歳でも自分がそう思うなら大人である。

 

最近読んだ本にインターネットポルノ中毒という本がある。

 

 

 

 

内容としては、1章でインターネットポルノ中毒者の体験記で、中毒下での害・脱却しての益を語り、2章でインターネットポルノの科学的な危険性、3章は総括、といった感じ。

 

この本は随分と“素人”のレビューが長い。さながらテレビの通販番組である。最新の話題すぎて、実際に科学的に分かっている部分が少ないため、素人のレビューも参考にしよう(参考にせざるを得ない)ということなのだろうが。

 

そのレビューらは読むまでもなく2パターンで、「中毒下は悲惨だった」「やめたらハッピーだ!」という2つだ。

 

これらは別々に載せられていることもあったが、続けて記載されていることもあった。この「害から苦しみながら脱却して益を得た」という過程を書いているレビューを読んで思いついたのだが、大人というのは歩み出す理由を欲しているのではなく、今まで歩み出さなかった理由を欲しているのだと。

 

別にインターネットポルノ中毒者がそうだと言うつもりもないし、別にこの本もそんなこと一つも書いてない 笑

 

でも、個人的にはこの言い方がしっくり来た。大人になってから「俺は○○になりたい!強い意志があるんだ!」と言うと、「え、強い意志があるのに、今まで何もしなかったの?何で?」と過去何もしてこなかったことを指摘される(自己が生み出した仮想の他人からも)。「今っ!今、俺は強い意志を持って○○になりたいと思ったんだ!」と言えばいいだけではあるが、そう割り切るのも容易ではない。実際、他人を見た時に、その人がそれに対してどれだけ時間をかけてきたかで情熱を測ることは自然とやってしまうだろう。

 

だから、「始めるには何歳からでも遅くないです!」「これからの人生で今が一番若いんです!」「○○さんは何歳から始めて夢を叶えています!!」などの“歩み出す理由”よりも「あなたは○○によって、今まで夢を諦めざるを得ませんでした。」「あなたがダラダタとしていたのは、実は病気のせいなんです。」「あなたはこれを治して、ようやくスタートラインに立てました。」というような“歩み出さなかった理由”の方が効くのではないかと。

 

この歩み出さなかった理由というのは社会的に説明しやすい程良い。大病が一番良い。インターネットポルノ中毒者がそうだとか言うつもりも全くないが、「俺はインターネットポルノ中毒だったから、今まで歩み出せなかったんだ。」と社会的に言えるようになるだけで、楽になれる。歩み出せる。単純なようだが、仮にそれを他人に言えなかったとしても、内なる他人を克服できるだけでも大きな進歩である。

と、ここまで書けば、歩み出す理由・歩み出さない理由などは、ただの後付けの理由でどうにでもなるような大したことがない陳腐なものであると分かるだろうから、好きにやればいいのである。やりたいからやる。ガタガタ言う他人にはうるせえと言えばいいのである。

使う言葉使わない言葉

言葉使いが大事なことは各所で何度も言っているとおりなのだが、その具体例をそのたびに説明するのは面倒なので、ここでリストにまとめよう

 

なお、()は説明・理由

 

 

 

 

 

全く使わない言葉

定義がガバガバシリーズ

愛(「愛する」とは違う)

幸せ(ほぼ使わないが、使うとしても幸福)

生産性

モチベーション

承認欲求

自己肯定感(参照)

子供・大人(詭弁に使う名詞の代表格。気をつけなければ使いがち…。)

 

思想として受け入れにくい

生まれ変わる(自己は地続きであるということが唯一の自己の担保と考えるので)

自己投資( 資本主義社会に自らを組み込む感じがたまらなく嫌) 

もにょもにょ・もにょる(ちゃんと喋れ)

自己顕示欲(これにまとめてる時点で思考を放棄している)

成長

 

単純に汚い

糞、クソ(汚い。派生した「クソ○○」「バチクソ」なども使わない)

死ね、カス、ゴミなどの言葉

ババア(ジジイは稀に自虐的な文脈で使う)

論破(使われ方がしばしば汚い)

底辺(図形的な意味でなく、社会的立ち位置での意味で)

老害

民度

 

 

 

稀に仕方なく使う言葉

本当の○○(○○の再定義がシンプルにしょうもないので使わないけど、自然と使っちゃうことがあるのでリストアップ)

本質(そんな簡単に言えるはずがないので普段は使わないけど、使うとむっちゃスムーズに進みそうと思った時にやむなく使う)

 正義(仕方なく使うというよりも、使い方が難しすぎてほとんど使わない)

 

 

よく使う言葉(口癖)

なんか、

ばっちい(汚いものを指す)

しんどい(胃もたれする感覚を感じる色々に)

基本的に(例外を把握してますよというアピール)

軟弱

鬼○○(クソ○○と言いたくない時に使われがち)

救いがない

 

 

自作?の言葉(既出かどうかの確認はしていない。)

スクールカースト2.0

アイドルにガチ恋してしまう構造と、ガチ恋しないための自衛

アイドルにガチ恋してしまう構造と、ガチ恋しないための自衛

 

 

アイドルに限ったことではなく、インターネットなどで一方的な(バーチャルな)関係になる全てが対象である。

どこかに書いた気もするが、一方的な状態では結晶作用がとてつもなく素早く強く起きる。というのも、現実の人間関係では起きない接触回数を持つことが出来る上に、自らの見たい部分のみを見続けることができるので、あらかじめあった結晶にも作用するなどの相乗作用もある。

 

構造自体は至ってシンプルだが、これ自体の危険性は、結晶を解けないことにある。

というのも、現実の人間関係では、何か接触が先にあって、関係性も規定されながら時間が流れていくので、それに付随した現実の事象によって、自らの結晶を確かめ続ける過程を踏むことが出来る。(無論、接点のない現実の人間に恋するパターンもあるので、一概には言えないのだが…。)

一方的な関係では、現実の事象を集めることもできない上に、“発信者が恣意的に自らの見せ方をコントロールできる”ので、所謂「匂わせ」みたいなことを無限に行い続ければ、ガチ恋勢の結晶作用はますます強まっていくばかりだろう。

 

ガチ恋勢の結晶作用の自衛は私が思うに3つある。

1つ目、忙しくなること。暇な状態だと、接触回数を自ら無闇に増やしてしまうので、それを避ける。

2つ目、現実の周りの人間関係をより深く大きくすること。あらゆるコミュニティを形成して、それぞれの関係性にそれぞれの役割を分散させて、依存先を手広くすることで、そもそものガチ恋を和らげる。

3つ目、結晶作用に関して“ボールが帰ってこないこと”を徹底して確認する。自らが結晶化させた想像を基に相手を見ることを繰り返し、また結晶作用を起こしている流れの中で、“相手の魅力それ自体が自らの労力によって行われているという負担”を確認する。その過大評価を自覚する。(恋愛論第二十二章熱中について参照。)

音楽理論その2

 

setoshunnosuke07.hatenablog.com

 音楽理論その2として。

 

音楽理論というのは、結構順番が大事で、いいとこ取りのつまみ食いみたいなことは割とやりづらい。(もちろん、理論は既存楽曲からの法則をまとめている側面もあるが、)理論の発展は理論から起きることも多いので、いきなり飛ばせない。(「Aが成り立つならB、Bが成り立つならC」という具合)

 

以前の記事の例えを使うなら、音楽理論は発展的に(高度に複雑に)なっていけばいくほど幹から遠ざかる構造になっている。

 

ここで注意すべきは、音楽理論の複雑性は音楽のための複雑性ではないということ。

 

音楽理論的に高度であるというのは、幹から遠い場所にあるというただそれだけであって、それが実際の音楽において重要な要素を担っているかどうかはまた別の話である。

 

なので、音楽理論は途中で名曲を通り過ぎる。途中からは名曲とは関係のない理論における高度さを求めていくことになるからだ。

 

だから、作曲家は途中で自分が思う名曲について向き合う方に時間を割くべきだ。(理論を学ぶ必要がないとは言わないが、配分を考えなくてはならない)

 

理論は名曲を向いていない。だが、それは“理論”のアイデンティティを考えれば仕方がないことで、理論は理論というだけあってある程度の普遍性を求められるから、人によって解釈が分かれすぎてしまう名曲のようなものを枝に設置はできないのだ。

 

プロの作曲家は自分で名曲の方を向いて理論的に分析している。作曲家の仕事の一部として、それが組み込まれていると言っても過言ではないのだが、個人的にはここにプロ音楽理論アナライズ家がいると良いのではないかと思う。つまり、理論の高度さや複雑性を向いた音楽理論ではなく、名曲を向いた音楽理論を作るということ。

音楽理論知的財産権などないので、これを作った人は大して儲けることもないだろうが、そこにはかなりの需要がある。というのも、初級者からプロの作曲家まで使えるような理論になるからだ。初級者は今までならプロの作曲家が自前で行って来た名曲のアナライズからセンスや感覚に落とし込んでいた部分を学習によってスキップできるし、プロの作曲家は自分でアナライズする時間を作曲側に注ぎ込めるようになる。感覚的には、プロ棋士が将棋ソフトを使ってオリジナル定跡を組み立てるための専属プログラマーを雇う感覚に近い。

現実的な案としては、プロ作曲家が集まってチームを組む、そして、その作曲家が役立つようなアナライズをするプロアナライズ家をチームに組み込んで活動する…。それが理論として世に出せるぐらいの量になったら、外部にも出して売ってみる…という感じか。

音楽理論について

音楽理論についての自分の立ち位置と見解を述べておく。

これは今までの俺のまとめでもあるし、未来の俺がどのように感じていたかを確認するためのメモである。

※特に読み物として形作るつもりもないので、散文的なまま投稿します。

 

音楽理論は平たく例えれば歴史と文法の集合。定跡、格言のようなものもある。学んで得られるものは学習効率のブーストであって、作曲能力ではない。ただ、もちろん作曲能力の向上速度に寄与することは間違いないので、学ぶメリットは十分にある。(気をつけなくてはならないのは、音楽理論は作曲能力の向上“速度”に寄与するだけで、作曲能力の向上には寄与しない。作曲能力の向上のためには、作曲する以外にない。これが唯一の解。ここをしっかり認識しておく必要がある。理論を学んだだけでは作曲能力は向上しない。)

 

学習の際に一番苦労するのはその理論の読解、つまり国語力。歴史や文法自体は難しくないのだが、それを書いている日本語を理解するのが難しい。

 

また、音楽理論がカバーできる範囲というのは「何で?」を突き詰めていって「それが人間にとって気持ちいい(悪い)から」というところまでで、そこから先は人間と音の関係に関する心理学、脳科学などの分野になる。音楽理論は人間の気持ちよさという幹から出る枝葉のことである。この空間感覚は超重要。

 

俺自身の理想の学習方法(独学)。

俺自身は作りたい曲が先にあったりするので、そこから自らが学びたいと思うものも自ずと決まってくる(学びに大雑把な優先順位がつくだけで、学ばないでいい知識があると思っている訳ではない)。また、既に基礎的なポピュラーミュージックの理論は習得しているので、全く意味がわからないということが起こらない。独学で最も困ることは、気になったことが書いていないこと。意味がわからないという場合は著者の日本語が下手で意味不明になっているというパターンなので、他の著者から辿れば大体意味がわかるので、そこまで問題ではない。ただ、独学での問題は自分の中で生まれた疑問に本が事前に答えてくれているとは限らないこと。

ここで、師が必要になる。つまり、俺は家庭教師的なサポート音楽理論先生に質問できる環境が一番ベスト。そして師への質問内容は納得するまで幹まで辿るということ。

 

 

根拠

 

音楽理論は基本的に末端の枝や葉を学ぶことになる。そこがつまるところ作曲メソッドである。そこでスムーズに学習できる(特に気にならない)こともあれば、もっと幹の方の枝や葉を学びたいと思うことも多々ある。それは自身の納得感だけであって、特段根拠のあるようなことではない(どうせ人間の気持ちよさという幹まで行くので、どこで辿るのをやめるかは人それぞれ)。

 

例えば、

「G7→Cで解決します」と言われ、音を聴いて納得して次に進む人はそのままでいい。

 

だが、どうして解決するのか気になる人は

 

「G7のF,BがE,Cへ動くことで解決します」(ルートG→Cの完全5度の動きも関係あるけど省略)

「G7のF,Bは減5度のトライトーンで不安定」

「減5度は周波数比^(6/12) = 2^(1/2)=√2で綺麗な整数比にならないから」

(以下、幹まで続く)

 

これは初歩の理論の例だが、これは複雑な理論になればなるほど幹から離れた位置にあるので、この↓への矢印の数が膨大になる。そして、この幹への旅で、どこで納得するかはその人次第である。ある場所からは幹まで辿りたくなるかも知れないし、ちょっと枝を前に戻るだけで十分納得することもある。

 

音楽理論のカリキュラムとはこのようなバランスを踏まえて作られているのだと思う。つまり、多くの人が納得するような枝葉と幹のバランスをうまく組み合わせて作るということ。その幹まで戻る量を概ね定めるのが音楽理論教師の役割であって、これが教師が生徒の学習の有限性を決める役割ということ。

 

音楽理論の師になるには、どこからでも幹までステップを踏んで辿れなければならないので、知識の量が所謂理論を勉強した人では無理なことが分かる。逆に理論を勉強して作曲に活かすだけなら、自分の納得感の分だけ遡れば良いので、全てを網羅的に勉強する必要もない。

 

こうなると、打算的に言えば幹まで戻るのは労力が大きいだけで意味がないように感じるかもしれないが、全ての枝葉は幹から出ているので、戻れば戻る程、自らの中で独自の見解や理論を導く地力、そして独学で学べる自力がつく。だから倍音だとか周波数の話は重要で、作曲メソッドとしては大して意味をなさないが、その後の納得感や、自らが作曲について考えていく際に根源的な部分で重要になっていく。

 

学習の禁則

理論的な整合性に執着しない。音楽という現象が現実であって、それが全てであるというスタンスを忘れないことが大事。(雨が降っている時に「今日は降水確率0%なので、雨が降っているのはおかしい!」と言うのは馬鹿げている。)

 

紙を褒める。存在は強い。アフォーダンス。

 

これはシンプルに電子書籍と紙書籍と置き換えてもらっても理解できると思う。

おさらいとしてざっくりとそれぞれのメリットデメリットについてまとめよう。(消費者の視点として)

 

それぞれのメリットデメリット

 

電子書籍

メリット
  • テキスト検索に強い
  • 細かく印刷できる
  • スクラップなどの編集が容易
  • (することないけど)他人に共有しやすい
  • 重量0で場所も取らない
  • マンガだとかはキレイに見れる
  • ディスプレイが光る(暗所で灯り要らず)

 

デメリット
  • 平面のディスプレイに縛られる。それを打破するには新たなディスプレイを用意する必要がある。(例えば目次や訳注などを見ながらページを行き来して読み進めるのが面倒)
  • プラットフォームによってはプラットフォームの裁量で見れなくなったりする

 

紙書籍

メリット
  • 空間的な理解ができる(本の厚み、ページめくりなど)
  • 身体的なフィードバックがある。
  • 特定のページに指を挟みながら読める(目次や訳注)
  • 自室という空間に存在できる

 

デメリット
  • 重くて場所を取る

 

※それぞれのメリットデメリットは表裏なので、面倒なところは書いてない。

 

 

紙を褒める

 

まあ、読むということ、コンテンツを受け取るということにおいて、紙が勝ってると思ってる。俺が電子書籍を選ぶ時はめっちゃ安いか、電子書籍しかないかの二つしかない。紙で買って電子書籍が欲しくなったら裁断して自炊するしね。

 

紙書籍を読む時に空間処理できるのが本当に強い。本の内容も本の前の方、後ろの方だとか、位置関係で覚えるのは定番だし、自室や本棚に置くこと自体が、その記憶のマップになるから、本をなおした位置で本の内容を覚えていたりもする。

 

そして、今日ふと気づいたのが、紙書籍は既に“そこに在る”ことが非常に大きい。例えば、仕事のデスクの上に引き出しに眠っているお菓子を置いて仕事をしてみてほしい。そうすればふとしたときに食べたくなってしまうだろう。目に入るところ在るということも大事だが、そこに存在しているということが非常に重要だ。

 

アフォーダンスという概念がある。Wikipediaにはこうある。

アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アフォーダンスは、動物(有機体)に対する「刺激」という従来の知覚心理学の概念とは異なり、環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値であると定義される。

アフォーダンス - Wikipedia

平たく例えれば、ドアノブはドアノブ自身が「私を持って回してね」と話しかけているといった感じだ。

本もそのように存在しているということで、既に俺に話しかけている。それは本当に大きいように思う。

 

PCで仕事をしている人は、例えばフィジカルに存在できる仕事道具で仕事する人よりも、最初のとっかかりに使うエネルギーが大きいのではないだろうかと思う。少なくとも自分はそう感じる。それはPCは話しかけてくれないからだと思う。

 

 

ついでに紹介、まだ読んでないので後で読む。

https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/?action=repository_action_common_download&item_id=141302&item_no=1&attribute_id=1&file_no=1

 

そして、電子書籍が100年後もあるかどうかは怪しいが、紙は捨てなければ存在できる。そういう時間的な強さもある。それに関して書いた記事もある。

 

setoshunnosuke07.hatenablog.com